【豊かさとねぎらい】

今年1月から月に1度、メーカーに勤務する51歳の「彼」の視点を通じて、働き方や生き方の多様性について考えるストーリーを綴ってきた。彼は早期退職を1年間凍結し、急逝した工場長の後任に就任。問題が山積する現場理解に努める中、高齢化で衰退した隣町の復興を牽引した人物との会話から、様々な問題の根底にあるのは「無関心」ではと考える。それを訴えてみたが、彼の声が現場に届くことはなかった。

「彼」には、3人のモデルがいた。四国へと旅立った知人もその1人だった。40代で商社の役員になり、生活産業室長を最後に会社員生活にピリオドを打った彼は、「私はどこへたどり着くのかな」とほはえんだ。私たちが身を置く社会や世界は、緩やかに変質している。そうであるなら年齢を重ねることで、やってみたいと思っていたことが変質してゆくのも自然なのだろうと、私には理解できた。

失われた多様性と溢れる情報
連載を始めるに当たり気になっていたことが2つあった。1つは「豊かさ」の解釈である。「豊かになった今、どうして」との声を、2000年以降何度か耳にした。だがある辞書によれば、豊かさとは「必要なものが十分満たされたうえに、まだゆとりが見られる状態」とある。この解釈に基づけば、豊かさを語るにはゆとりのあるなしが大事だと分かる。現代社会は本来の意味で豊かな社会になってきただろうか。

もう1つは「ねぎらい」が減っている点である。懇親会の場で将来の構想を餞舌に語る人はいても、個々にねぎらいの言葉をかける人をほとんど見かけなくなった。ねぎらうには、日頃の所作を気にかけたり、相手が何をどう苦しみ、後にどう解決したのかを知っている必要がある。「労い」の文字通り、相手の苦労を少しでも知ることができれば、私たちはもっと優しい存在になれるのだと思う。

連載の後半で「無関心」を取り上げたのも、この文脈からだった。究極の自己愛からくる柏手への関心のなさが無関心の根元にあるのだとすれば、ねぎらいが減った理由は、無関心がはびこる理由と同根であることに気づく。

豊かさとねぎらいが失われていった理由を考えた時、ふと頭に浮かんだ単語は「米国」と「情報」だった。一方的だと非難されるのを承知で書くが、それまであった日本的な“多様性”がすっかり塗りつぶされたのは、米国型価値観が蔓延したためだろう。また本来、分化成熟せねばならないものの考え方が未分化のまま放置され、それが容認されるまでになった理由は、溢れる情報にあるのではないかと、私は疑っている。情報処理に取られる時間が増えるほど、立ち止まって考えることをしなくなるからであり、それで済まされるシステムになっているからだ。

好んで取り入れた要素であるなら、捨て去るのも自由であるはず。今、私たちは何を残し、何を捨てるべきか。そんな付言を添えて、締めの挨拶とさせていただく。

[出典:日経ビジネス、2010/12/06号、荒井 千暁=産業医]

「上司と部下のココロ学」は今回で終了いたします。

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