【人間関係は憂鬱か】

彼は、自分をかわいがってくれた前任工場長のKから、「このところ職場で浮いてしまっていてね」とこぼされたことがあった。社内の意識改革を手がけてくれないかと、当時の社長からKが告げられた翌年のことだった。「『さ末なことに拘泥せず、ブルドーザーのように推し進めろ。責任はオレが持つ』と社長から言われたけど、ほかの経営層からも部下からも総スカンでね。急ぎすぎたのかもしれない。ともあれ正論は1つじゃなかったことに、遅ればせながら気づいたんだ」。病床についていたKがその時見せた自嘲めいた顔を、彼は忘れない。

枕元には高橋和巳の文庫本『わが解体』が置かれていた。できれば作家自身に会って話してみたかったと、Kから聞いたことがあった。本を手に取り開いてみたら、赤ペンで囲まれた部分に目がいった。

「内紛というものが避け難くもつ、芋蔓式につらなった憂鬱な人間関係のからみあいとその矛盾があばかれれば、芋蔓式につらなるものゆえに、生涯許されざる不倶戴天の敵対ともなるだろうし、また他者に加えた批判は、必ず自らに照り返すゆえに、同時にそれは自らのよって立つ地盤を奪うことにもなるはずである」

読んだ彼は陰鬱で難解な文章だと感じつつも、Kはその最期をこの文章と重ねているような気がした。正論という武器によって、目の前にある矛盾を解きはぐそうとしたところで、芋蔓のように絡み合った人間関係なる実体は、解くほどに不協和吉を立ててしまう。おのずと敵対関係が生まれ、両者は歩み寄ることなく、ある者に解体なり崩壊をもたらすことさえある。それが苦から変わることのない人間関係の顛末かもしれないと思った彼は、天を仰いだのだった。その彼もまた、かつてのKのように、浮いてしまいつつある自分に気づいていった──。

光明を探し求めて
けれども、と彼は思う。人間関係とは、書かれているように憂鬱であると決めつけてよいものかどうか。憂鬱な中にもひと筋、輝く光明があるのではないか。いやそれは逆で、光明の中に一部の憂鬱が潜んでいるのが人間関係かもしれない。でなければ隣町の復興や、それを手がけた教育者への説明がつかない。

隣町の教育者のように、人間関係の場を新天地に求める手もある。辞めていった社員の中には、そうして生き永らえている人もいるのではないか。移りゆくことを何度か繰り返したら、やがて寿命の方が疲れ果てた顔をしてやってくることもあるだろう。彼はつと「初心」なる言葉を思い出した。年頭に決めた通り会社員生活にピリオドを打ち、四国八十入力所を巡礼しながら、人間のあり’ようを一から見つめ直してみたいとの思いが、揺るぎないものになった。

[出典:日経ビジネス、2010/11/08号、荒井 千暁=産業医]

このコラムについて
メーカーの早期退職を1年間棚上げし、急逝した工場長Kの後任に就いた彼。現場理解に努める中、高齢化で衰退した隣町の復興を牽引した元教育者との話から、様々な問穎は「無関心」に起因すると考えた。だが懸命に向き合うほど、周囲から浮いていく。

戻る