【清水次郎長の養生の極意】

1820(文政3)年、駿河国(静岡県)清水港で米屋「甲田屋」を営む山本次郎八は、生まれたばかりの男の子を養子に迎えた。子供の実名は長五郎。その子は元日に生まれたが、戸籍薄では「12月10日生まれ」とされた。清水港には元日に生まれた男子は英雄か極悪 人になるという言い伝えがあり、将来を案じた親がそうしたのだという。

確かに嫌な予感はあった。7〜8歳頃から親も手を焼く腕白ぶりを発揮して寺子屋を破門され、禅寺に修行に出されるが、ここも追い出されるはどの悪戯をした。後に身を慎んで家業に精を出すが長くは続かず、23歳の時にアウトローの世界に身を投じる。ご存じ、「清水次郎長」の誕生である。

身から出たサビとはいえ、侠客・博徒の末路は悲惨そのもの。次郎長と同様に講談・芝居に脚色された上州(群馬県)の大親分、国定忠次は1850(嘉永3)年に関所破りの罪で、礫(はりつけ)の刑に処されている。次郎長としばしば抗争を繰り返し、その名を轟かせた甲州(山梨県)の博徒、栗駒勝蔵も1871(明治4)年に処刑所の露と消えた。

一方、次郎長はと言えば、凶状持ちとしては珍しい74歳の長寿を全うし、畳の上で穏やかに世を去った。実は次郎長には養生法があったのだ。

1893(明治26)年、次郎長は死の間際に自分が天寿を全うできた理由を2つ述べた。第1は江戸城無血開城の立役者で、剣の達人の山岡鉄舟と出会ったこと。次郎長は鉄舟の影響で真人間になることができた。

第2は何と禁酒。無頼と禁酒は生き方としては正反対だが、生来の酒好きだった次郎長は博徒になった23歳の時にピタリと酒を断っている。3代目の妻おちょうも、次郎長の長生きの秘訣として禁酒を挙げている。子分たちが酒を飲んでいると、自分は酒の看で飯を食う。また「体に毒だから」と子分たちが飲み過ぎるのを禁(いさ)めた。東海道一の大親分からそう言われたら、どんな荒くれ者も素直に従った。

酒は「少し飲む」のが秘訣
かつては酒は「適量」などと言われたが、最近は「少し飲む」人が一番長生きであることが分かってきた。物足りないかもしれないが、日本酒なら1合、ビール大瓶1本以下の人が、心臓病による死亡率も、事故も含めた全死亡率も、全く飲まない人より低くなる。

全身刀傷だらけだったという次郎長は、実際に飲まないことで何度も命を救われてきたのだろう。晩年の次郎長は薄めた酒で喉を潤したり、みりんを酒代わりに飲んだ。いいと思ったことは最後まで貫き通す。その心情の中にこそ、次郎長の養生の極意があるようにも思える。飲み過ぎになりそうな時には、ぜひ清水次郎長を思い出していただきたい。

これまで何度もお会いしてきた、浜松医科大学名誉教授の高田明和先生が、次郎長の直系の子孫であることを知った。最近、高田先生は自著でそれを告白している。そうと分かると写真で見る次郎長と、高田先生の顔が重なって見えるから面白い。

[出典:日経ビジネス、2010/06/07号、堀田 宗路=医学ジャーナリスト]
[イラスト:ヨコイまこ]

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