【工場長の散策日記】

彼は手ぶらで工場内を回る。「工場長の散策日記」を社内のイントラネットに載せるためのネタ探しだ。「散策日記より、巡視記録の方が分かりやすいのでは」。一緒に昼食を取っていた部下がそう言った。「巡視は警戒や監督が目的でしょう。しかも記録となれば意見が書きづらい」と彼が答えると、部下は首を傾げた。「それなら、歩いて回る目的は何ですか?」。

目的と聞いて、彼は考えてみる。「情報収集」には監視めいた響きがある。「コミュニケーション」ではどことなくウソっぽい。確かに行動には、目的が必要なのだろう。しかし、言語化できない目的もあれば、行動することで初めて見えてくる目的もあるのではな いか。

あら探しをされているようで気になるとの声を耳にしたとも、部下は教えてくれた。あり得る。その通りだ。「メモせず、五感で雰囲気をつかむのが目的。答えになっているかな?」。今度は部下がすんなりうなずいた。

希望退職した元社員との遭遇
その日の午後のこと。オープンスペースを通りかかると、いすに座っていた男が立ち上がった。知った顔の社員だが、珍しくスーツを着ていた。今日は社外で打ち合わせセもあるのだろうと思っていたら、近づいてきて名刺を手に挨拶された。開発5課と共同で仕事をするようになるかもしれないと言う。「御社の工場内に足を踏み入れることはもうないと思っていたので、自分でも驚いているんです。これもご縁でしょうか」。

彼は驚くより、まるで事情がのみ込めなかった。顔と名前は知っているが、名刺は老舗E社のものだった。「今はE社にいるの?」と問うと、「はい。希望退職制度を使いました」と返ってきた。工場長の彼が手を挙げたのは今回ではなく、4年前に募集された時に離職したという。今夜の予定を尋ねてみたら、まだ決めていないとの返事。「よかったら飲みませんか」と彼が誘うと、元社員は快諾した。翌日、彼は「工場長の散策日記」を更新した。

「昨日、元社員だった方と社内で出会う。新プロジェクトの件で来社されたとのこと。その方の口から『御社』なる言葉を何度か聞いた。別の会社の人になられたことを改めて認識。今も当社のファンだと聞いて安堵す」

日記に書かなかったこともある。彼が開発5課のスタッフも一緒にどうかと誘ってみると、それぞれの理由で断られた。E社ではなく、別の会社と組みたいと開発部長が語っている事実も知った。今年度中に結果を出さねばならない開発5課は、崖っぷちに立たきれている。スタッフが元社員との私的な席に二の足を踏んだ理由も理解できる。縁と言えば縁だが、縁が生かされるかどうかは別の問題なのだろう。彼はまた1つ、厳しい現実を知った。

[出典:日経ビジネス、2010/05/17号、荒井 千暁=産業医]

このコラムについて
月1回、メーカーに勤務する51歳の「彼」の視点を通じて、働き方や生き方の多様性について考える。早期退職を1年間棚上げし、急逝したKの後任として工場長に就いた彼。現場で本質的な議論がしにくくなっていると感じ、工場内を自らの足で回り始めた。

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