【生きていた「仙気(せんき)」の虫】

江戸の頃には、「仙気」と呼ばれる怪奇な病があった。病気の虫が腹で暴れると、男子の陰嚢が巨大化してしまうのだ。俗に「狸の陰嚢は8畳敷き」などと言われるが、実際に仙気で陰嚢が大きくなった人がたくさんいた。

幕末にまとめられた『想山著聞奇集』によると、中でも大きかったのは伊豆の男で、病気で陰嚢が5斗(約90リットル)もの大きさに腫れ上がってしまった。その男が座ると、陰嚢が巨大なために姿が隠れて見えなくなってしまったというのだからすごい。

これは、江戸市ヶ谷田町(東京都新宿区)に住んでいた海野景山という人物が実際に伊豆で見聞きした話だ。

ある時、大勢が集まって、深夜まで酒宴が催された。その中には、景山も交じっていた。集まった男たちは酔った勢いで、巨大な陰嚢の男の家に押しかけ、男をからかった。「その見事な陰嚢を500両でわしに譲ってくれないか」。名主が男にそう言った。からかわれるのに慣れているのか、男は平然とこう答えた。「これは伊豆の名物。500両では安すぎます。3000両なら考えましょう」。

2人の話を聞いていた景山が横から口を出した。「確かに、これは伊豆の名物。500両では安い。かといって、3000両では高すぎる。間を取って1000両ではいかがでしょうか」。冗談ではあるが、これで話はまとまった。

ところがその後、名主の陰嚢が痛み出し、徐々に大きくなって、大釜ぐらいの大きさになってしまった。一方、当の男の陰嚢は小さくなって、元の大きさに戻ってしまった。2人は、冗談にもあんなことを言うべきではないと戒め合ったという。

「疝痛」が走る尿路結石
断っておくが、病気は怪奇現象ではない。実際に仙気いう病気はあったし、その病気になると男性の陰嚢が巨大になることもあった。「病気で睾丸の大きくなること土塚(つちづか)の如し」などと言われたのは、誇張はあるものの本当である。

病気というと怪異な出来事のように見られてしまうが、脱腸、つまり鼠径(そけい)ヘルニアと考えれば不思議ではない。当時、腸が下りて大きな陰嚢になる脱腸が多かったのである。明治になって西洋医学が導入され、仙気が睾丸の病気や下腹部の病気で起こることが分かってから、そう呼ばれなくなっただけである。

病気は名前を変えただけで、現代でも生きている。子供の鼠径ヘルニアは先天的なものだが、大人でも腹壁の筋膜が加齢とともに弱くなってくると、起きてくる。これは日帰りの手術で治せるようになった。

夏が近づいてくると、別の病気の虫も暴れ出す。脂汗が噴き出すほどの激痛を伴う尿路結石である。この痛みは今でも「疝痛」と呼ばれている。

これを防ぐには十分な水分摂取と偏食を避けることである。日本では、毎年新たに10万人が尿路結石を発症する。病気の虫は死に絶えたわけではない。もっと元気になっているようだ。

[出典:日経ビジネス、2010/05/10号、堀田 宗路=医学ジャーナリスト]
[イラスト:ヨコイまこ]

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