【社員に視線を向けろ】

月に1度の安全衛生委員会が終わった。会の進行をしていたのは安全衛生推進室のメンバー。開発課や設備保全課にいる若手の社員たちだった。工場の規模が大きくなったので安全衛生事務局が「室」に格上げされたのだろうと、工場長になって間もない彼は思っていた。だが、そうではなかったことを、委員会メンバーでもある部下から知らされた。「工場長だったKさんが、事務局を廃止したのです」。

昨年秋のこと、「サービス残業が黙認されている。問題ではないか」とする意見が委員会の場で出たという。それに対して事務局にいた課長が立ち上がって意見を述べたらしい。「黙認されているとは心外だ。勝手に残業するなとの通達が公文書でも出ている。守れないのは社員の自覚がないからだ。上司が認めない残業は、上司から見て不要な仕事だということ。とにかくこの場で、そうした意見は言わないでもらいたい」。サービス残業について意見交換されたことは、議事録にさえ記載されなかったという。

「問題だね」と彼は言った。サービス残業が常態化すれば、心身を病む危険がある。安全衛生委員会の場で取り上げられていい議案だ。課長はなぜそこまで激高したのか。疑問はまだあった。事務局のメンバーを代えることなく廃止としたKの真意は何なのか。

疑問は、部下の説明で氷解した。「実際にあったよからぬことを、なかったこと同然にしてしまう。汚点を残さず穏便に済ませようとする保身的体質は、偽装や粉飾と根が同じだとKさんは悩んでいました」

現場にはぴこる保身的体質
上司から暴言を吐かれたり、無視されたりすることのつらさを、退社直前の若手社員から聞かされたと、Kがメールしてきたのはいつのことだったか。保身的体質と聞いて、彼はもう1つ思い出した。Kが残した電子ファイルだ。「人事部を教育するのは誰か?」と題されたメモには、「現場は何を求めているのか。社員への視線は、顧客への視線と同質であることが求められる。保身的体質から抜け出せない人事部ならぶち壊せ!」とあった。

温厚だったKの文章とは思えない激しさを感じた彼は、どの工場も安全衛生委員会の事務局は、人事部の出身者が責任者だったことに気づいた。そして、先日居酒屋で後輩に話したことを考えてみた。マニュアルがあっても守ることができないなら、なぜ守れないのかを分析する必要があるだろうに、そうした話をする雰囲気さえ薄らいでしまったと、後輩に嘆いた件だ。

だが、一部の保身的な人間のために、本質的な議論ができにくい環境が生まれているのかもしれない。毎日必ず現場を歩き、自分の耳で社員たちの声を聞いてみよう。Kの遺志を引き継ぐことで、残りの8カ月を燃焼してみようと、彼は決めた。

このコラムについて
月1回、メーカーに勤務する51歳の「彼」の視点を通じて、働き方や生き方の多様性について考える。早期退職を1年間棚上げし、急逝したKの後任として工場長に就いた彼。現場で話を聞くにつれ、本質的な議論をする雰囲気が薄れていることに気づく。

[出典:日経ビジネス、2010/04/19号、荒井 千暁=産業医]

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