【心身を健康にする旅行術】

C社長(50歳)が愛車のポルシェに乗り、ルイ・ヴィトンのビジネストランクを抱えて来院した。若くして成功した起業家のC社長だが、最近多忙を極め、頭痛や不眠が続き、血圧も不安定になって参っている様子だった。

C社長のような経営者や経営幹部には、何かの役割を演じている人が多い。C社長の場合は、経営者として求められる堅確な意志や包容力、高い見識と創造性を常に発揮するよう意識してきたという。また、周囲からイメージされる「夢を実現し、誇りを抱いている経営者像」を体現しようともしていた。

私はC社長に、精神の身動きが取れない“心の動脈硬化”から脱却するために、トラベルセラピーを指導した。実は最近、「旅行をすると健康になる」という客観的データが報告されており、慢性疾患や軽症認知症、ストレスから来る鬱状態などの人に旅行を奨励する医師が増えてきている。

旅行の出発時からガン細胞の増殖を抑えるNK(ナチュラルキラー)細胞が活性化し、体内の細胞などを酸化させる活性酸素が低下する。動脈硬化や細胞の老化を防ぐSOD(活性酸素を取り除く酵素)の増加も見られる。さらに、脳波にはリラックス時に高くなるα波 が増え、ストレスを感じた時に分泌されるコルチゾールというホルモンの低下が見られるなど、深いリラクゼーシヨン効果が表れる。

そうした作用からか、旅行前日から幸福感や充実感が高まり、帰宅後2日日に最高値になることが分かっている(ピクニック効果)。旅の余韻が残るのはこのためで、それまで抱えていた仕事や家庭の悩みが小さなものに思えたり、怒りや敵意が減少したりもする。

3つ以上の知能に働きかける
私は健康効果と同時に、学びも得られる旅を推奨する。これは、米ハーバード大学教育学大学院のハワード・ガードナー教授が提唱する「多重知能(Multiple Intelligences=MI理論)」を参考にしたものだ。人間に存在するという8つの知能(図参照)のうち、3つ以 上を刺激することで、健康と脳に働きかける旅ができると考える。

C社長は、若き日を過ごした瀬戸内海の小島に向かった。新幹線が京都を過ぎた頃から、不思議に経営者としての緊張感が薄れたそうだ。そして、何も持たず、何の力もなく、あるのはただ「人のためになる仕事をしたい」という純粋な思いだけだった頃の自分に戻って行った。自然や町の人と接しながら、必死に仕事を覚えていた頃、損得なく自分に親身になってくれた人々がいたことにも気づいたという。

C社長は旅行をすることで、生きる原点と無償の支援を受けた記憶を思い起こし、体調不良から回復することができた。旅に出て、心の荷下ろしをしてみよう。あなたが忘れかけていたもの、今の生活に欠けている断片を見つけられるかもしれない。

[出典:日経ビジネス、2010/04/05号、江田 証=江田クリニック院長]

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