【使命感を伝えるために】

総合化学メーカーで水を浄化するプロジェクトの事業統括をしている大谷さん(58歳)は、最近、東南アジアや中東に行く機会が増えている。海外のプラントもだが、国内の製造現場でも人手が足りない。ほかの事業部から期限付きで応援を出してもらっている。

工場の敷地内で納涼会が開かれたのは7月下旬のこと。同僚とビールを飲んでいたら、尋ねられた。「地球のグリーン化が大谷さんの夢ですか」。

質問してきたのは、先月から応援に加わった若手社員のUだった。年を聞いたら、26歳だとUは答えた。息子と同じだと大谷さんは思った。夢などという大仰な意識はない。飲める水と吸える空気は、生きていくうえで欠かせない。「環境汚染は産業が発展するための通過儀礼のようなもの。我々は、先輩たちが取り組んでクリアしたことを引き継いでいく責務がある」。

高度成長の陰にあるもの
大谷さんが生まれ育った町には石油コンビナートがあった。大気汚染がひどく、小学生の時から喘息に悩まされた。発作が起きた日は校舎の階段を上れず、国語の音読でも息が切れた。石炭から石油化学産業へと大きく舵が切られた時代は、高度成長と公害が日本に同居していた。

進学した大学院は生体膜の研究が盛んだった。しかし科学研究費が少なかったから、液体製品としての培養液が買えなかった。班員たちは交代で、培養液を作った。粉末を購入して水で希釈し、それをマイクロフィルターで濾過する。一度に10リットル作るから半日作業だった。10円玉ほどしかないフィルターで本当に無菌化できるのかと、オレンジ色の培養液を見ながら思った記憶がある。

入った会社に、人工透析膜や工業用濾過膜を開発している事業部があった。以来30年、濾過膜ひと筋だった。

大谷さんとUの隣には、紙コップを手にしたシンガポールからの留学生がいた。「母国に貢献できてうれしく思います」と留学生が言った。確かにシンガポールは消費量の3割に当たる水を隣国から輸入してきた。大谷さんの勤務する会社で手がけている水の浄化技術が、シンガポールの水源不足を解消する一助にもなる。

だが、大谷さんの視線は中国に向いている。日本が20年かけてたどった道を、中国では数年で躯け抜けている。国民の平均所得やGDP(国内総生産)は急速に伸びている。けれども、空が見えない大都市。毒物に彩られることもある川。生態系がにわかに崩れ始めている。エチゼンクラゲの大量発生は、汚泥がそのまま放出されているからだと言われる。先天的に高度な異常を抱えた動物も出てきた。その動物には、ヒトも含まれているらしい。急いで手を打たねば、大変な世紀になる。

かつての日本を思い出す。ただ、日本の場合は自国企業の工場が原因だった。一方の中国は、外資系企業と合作企業と自国企業の工場が混在している。産業文化は異なるが、このままでいいはずがない。

「日本への影響とか、地球のグリーン化、あるいは夢というより、善悪という倫理の問題」と断言した大谷さんは、続発性の慢性気管支炎と今も闘っている。ビジネスを成功させることで、抱いている使命感が後輩たちに伝われば、と大谷さんは本音を静かに語った。

[出典:日経ビジネス、2009/08/31号、荒井 千暁=産業医]

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