【北斎を支えた最良の「薬」】

幼名を時太郎と言った。後に勝川春朗(しゅんろう)、叢(くさむら)春朗、群馬(ぐんば)亭、宗理(そうり)、雷震(らいしん)、戴斗(たいと)、不染居為一(ふせんきょいいつ)など、数え切れない ほどの名をつけ、改名してきた。だが、本名を聞かれると、江戸っ子に最も知られたその人の名前は北斎と言った。パブロ・ピカソとも並び称される天才画家、葛飾北斎のことである。

彼の呼び名は50以上もあった。カネに困ると、北斎は自分の名前を弟子に売り飛ばした。その後で、「前北斎」などと真面目に名乗っていた。

北斎には、執着というものがなかった。暮らすところはぼろ長屋。いつも藍染めの木綿をまとい、冬はその上に半纏を着ただけで、外出の際も羽織を着たことがなかった。食事はすべて仕出し屋で間に合わせ、酒は飲まない、煙草も吸わない。唯一の楽しみは、大福餅を食べることくらいだった。

カネにとらわれることもなかった。ある時、炭屋の丁稚が勘定を取りに来た。北斎は版元から届いたばかりの稿料を確かめもせず、包みのまま渡した。後で中を開いた丁稚は腰を抜かした。5両もの大金が入っていたからだ。

北斎がこだわっていたことはただ1つ。画業の奥義を極めること。眠る間も惜しんで諸流派の技術を習得したばかりか、当時としては斬新な司馬江漢の銅版画に着目すると、そこからあっという間に遠近法をつかんだ。

「一生現役」の秘訣とは
北斎の破天荒な生き様を支えていたのは、彼の頑健な体だったのは間違いない。北斎は江戸時代では珍しく90歳近くまで生きた人である。その彼の健康の原動力は何かと言ったら、やはり絵への情熱、「やる気」だろう。

1827〈文政10)年、67歳の時に北斎は中風になった。今で言う脳卒中である。この時、北斎は柚子をすりつぶして日本酒に溶かして飲む自家療法によって立ち直ったという。

さすがにこの年、北斎の描く作品はなくなるが、翌年からは絵手本(絵画学習のための教習本)などが上梓されていく。間もなく70歳を超えて、北斎が描き始めたのが、彼の代表作「富嶽三十六景」。巻き上がり、覆いかぶさってくる、大きな波の向こうに雪を頂いた富士山が見える「神奈川沖浪裏」は同シリーズの最高傑作である。これを見たゴッホは驚嘆し、ドビュッシーは交響詩「海」を作曲している。

驚くべきことに、こうした北斎芸術が完成を見たのは、中風直後の70歳以降なのである。北斎も言い切る。「七十歳前に描くところは実に取るに足るものなし」。すさまじいばかりの絵への執念である。

脳卒中と言えば大病である。そんな病気を簡単に克服できるのだろうか。筆者が知るある高名な医師は60代で脳梗塞になった。この医師は言語障害に悩まされたが、数カ月後には早くも仕事に復帰し、仕事をしながら障害を克服された。80代半ばになった現在でも、第一線で活躍している。やる気こそ、病を治す最良の「薬」となることをこの医師から教えていただいた。

鋭角の、刺すような白い富士から黒煙が上がっている。その黒煙の中を天へと昇っていく龍体が1つ−− 数え年で90歳を迎えた1849(嘉永2)年の正月、北斎は「富士越龍」を描く。その3カ月後、北斎はその生を終えた。

[出典:日経ビジネス、2009/06/22号、堀田 宗路=医学ジャーナリスト]

戻る