【離職者の置き土産】

午後9時。全社で残業は原則禁止という環境下で、何人かの従業貞が黙々と働いている。黒字部門の動きが1月に止まり、すべての事業が失速した。時間はあるはずなのに仕事が終わらないのは、人手が足りないからだ。

早期退職勧奨制度を使って職場を去っていった従業員たちは、予想を大きく上回った。景気後退の時代、辞めても次の職場は簡単に見つからないだろうと思って手を挙げなかった金井さん(メーカー勤務、42歳)も、帰宅が午後10時を回る日が週に2日はある。

送別会のたび、職場を離れていく仲間たちの意見を開いた。愚痴や不満が大半だった一方で、潔い友には救われた。「ただ感謝のみ。最後くらい気持ちよく」。友は、世話になった先輩が勤める総合研究所に転職が決まっている。有能な人が1人、2人と去っていく現実に、一抹の不安を覚える。

仮面をかぶつた上司と部下
「業績が向上しないのに、ウチは相変わらず平穏だな」との意見を投げかけてきたのは、金井さんの元上司。「そう言いながら、オレも動こうとしなかった。耳を塞ぎ目をつぶっていただけ」とつぶやく元上司に、金井さんはうつむいた。あなたも動かず、私も動かない。そうやって何年もの時間が過ぎていったのだろう。

ほかに印象的だったのは、メールに関する意見。「前もって本人に確認しない事後承諾メールが増えた」──言わんとしていることは、金井さんにもよく分かった。

「その業務は金井が担当します」とのメールが、上司から取引先に送られたことがあった。取引先はもとより、上司との関係まで厄介になるのは避けたいから、そ知らぬ顔で受け流したものの、上司からの相談は一言もなかった。同僚たちも似たようなことを経験しているようで、“事後承諾メール”はいつのまにか職場に定着した。

1人に意見したところで始まらないのは分かっている。でも、もう少し何とかならないものか。いや、意見をして変われるものなら、とうに変われていたはずだ。「知らぬ間に仮面をかぶって仕事していたんだろうな、オレも」。開いた金井さんは、はっとした。自分だって仮面を幾重にもかぶっている、と思えたからだ。

「ウチ以外の部署でも、上司と部下とで肝心な話ができていないようだ。例えば…」と元上司は切り出した。「転入してきた部下は、細かいことにこだわりすぎる」とある上司が言い、部下の方は「業務の指示ならメールでなく、口頭で直接ください」と言う。

改善を希望する要素が互いに複数あるのに、日常での会話がない。確認できる機会は、年2回行われる面談の時。「目標達成を評価する場でそんなことを話している。何かおかしいよね。歩みよりって、そんなに難しいかな」。

51歳になる元上司の自宅は兵庫県だが、選んだ転職先は東京に拠点を置く競合相手。単身赴任を予定しており、学生時代に住んでいた町にアパートを借りたという。「町が当時のまま残っているわけはないが、慣れ親しんだ町の空気をもう一度吸うことで、失ったものを取り戻してみようと思う」。

元上司は自己批判し、そのうえで自分の軸を見直そうとしている。離職者との別離は虚しいが、それぞれの再出発だと思えばいい一金井さんはそう考えることにした。

[出典:日経ビジネス、2009/04/06号、荒井 千暁=産業医]

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