【親の病は子へのメッセージ】

「母がどうしても許せないんです」
そうつぶやくK君(23歳)の手首には、リストカットの傷が残っていた。顔色が悪く病的に痩せ、大きな目がぎょろぎょろと空をさまよっている。

国立大学を卒業した彼は、大手企業に就職したものの、数カ月で表情を失くして痩せ細り、ついには無断欠勤するようになった。会社の産業医から紹介された精神科では「神経性食欲不振症」と診断され治療を受けていたが、内科的な問題を疑われたために、私のクリニックに送られてきたのだった。

精神科医の見立てでは、親との関係に問題があるとのことだった。名家に育った彼は幼い頃から優秀で、小学校時代は毎日塾に通い、全国模試での成績もトップクラスだったという。その陰では、母親からの厳しいしつけを受けており、子供らしい遊びをすることも許されなかった。常に母親の期待に沿うような生活を強いられていたのだ。

「母は周囲に見せびらかしたいがために、僕をこんな人間にしてしまったんです。それなのに、母が切望していた会社に就職が決まった途端、胃ガンで逝ってしまうなんて・・・」

K君の心の中には、母親に対する愛情と憎悪が同居していた。その両義的な心理が彼の苦しみの元凶だった。苦しみから逃れるために、自身を傷つけていたのだ。

医療の進歩で救命が可能に

腹部の超音波検査を行うと、胃の壁が異常に肥厚しており、スキルス胃ガンが疑われた。進行が速く、致命率の高いガンである。私は彼に、親の病は、親から子供への愛情に満ちた警告のメッセージであることを話した。「人は受精した瞬間に、先祖から荷物を引き継ぐ。それが遺伝性の病気であり、君の場合は胃ガンだと思う」。

彼が受け継いだ荷物を下ろすためには、過去を認めることが必要だった。私はK君にこう言った。

「君の母親はそう生きるしかなかった。そして、抵抗できなかった幼い君も、そうするしか生きる術がなかったのだ。それを認め、自分を許し、お母さんのことも許してあげてほしい」

そうして胃内視鏡で精密検査をしようとすると、K君は体を硬くした。以前に胃カメラを挿入した時にひどく嘔吐してしまい、以来、頑なに検査を拒否してきたという。今は経鼻内視鏡というものがあり、鼻からであれば苦痛なく検査ができることを説明すると、安心して任せてくれた。

彼の胃にはやはりスキルス胃ガンが見つかったが、腹腔鏡手術に熟達した外科医に手術を頼み、胃を全摘して救命し得た。お腹に残ったのは、いくつかの小さな穴だけだ。医療の進歩が人生の重荷を下ろす手助けとなり、私は医師としての誇りを感じた。

K君は順調に回復し、病院を旅立っていった。「僕に将来子供ができたら、『胃には気をつけろよ』と伝えます」と言い残して。彼は母を許し、メッセージをしっかりと受け取った。

[出典:日経ビジネス、2009/02/23号、江日 証=江田クリニック院長]

参考:
江田証(えだ・あかし)氏
自治医科大学大学院修了。医学博士。
米国消化器病学会国際会員、日本消化器病学会、日本消化器内視鏡学会認定専門医などの資格を持つ。

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