【どこよりも明るい江戸の空】

司馬江漠は1783(天明3)年、蘭書を参考にして、日本で最初の銅版画を製作した。江漠の銅版画の中でも屈指の傑作とされているのは、西洋絵画の遠近法を取り入れた「両国構図」。絵の半分は空で、明るい江戸の空がどこまでも広がっている。

江戸っ子の気風も、その青空と同じであっけらかんとしていた。十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』では、主人公の弥次郎兵衛と喜多八は旅の途中でカネをすべて盗まれてしまうが、そのまま気楽に伊勢への旅を続ける。全く悩まないのだ。フィクションだからではない。江戸っ子がもともと悩むことを知らないからだ。

彼らが物事に頓着しないのは、いつも火事と一緒に暮らしていたことも関係する。江戸の約260年の間に、大きな火事がなんと96回もあった。大火は約3年に1回、ボヤは7日に1回の計算だ。火事になればすべてを失ってしまうので、いちいち感傷的になってもいられなかった。

このことが分からなければ、江戸の名医としてうたわれた片倉鶴陵(かくよう)の楽天的な発想も理解できまい。

鶴陵は12歳の時に父と相州(相模国)の片田舎から江戸に上り、幕府の侍医、多紀元悳(げんとく)の門で学んだ。この時、鶴陵は多紀家の数千巻の蔵書を見て、立派な医者になるにはたくさんの本を読んで勉強するしかないと思った。もちろん、貧しい鶴陵に本を買うカネはない。鶴陵は昼間は働き、夜は人々が寝静まってから本を借りて読み、大切なところは全部写し取ることにした。

20歳の時に1人の病人を治して謝礼をもらい、そのカネで初めて本を買った。25歳で1軒の家を借りて開業するが、謝礼の半分は父に送り、残りの半分で本を買った。生活はかなり貧しく、1汁と飯だけで、1切れの魚さえ食べたことはなかった。それでも、学問 への情熱は失せることはなかった。

診療所には次第に患者が増え、書物もどんどん増えて、ついに千余巻となった。鶴陵はうずたかく積まれた書物に囲まれ、相変わらず勉強を続けた。ある日、遠くに往診に出かけて、夕方帰宅してみると、留守の間に近所から火が出て、家が丸焼けになっていた。苦労して集めた本は1冊も残らず、すべて灰となった。呆然として立ち尽くす鶴陵の目に、涙はなかった。

その時、鶴陵は思ったのだ。自分は医者として修業し一人前になれたが、産科の術には詳しくない。これはきっと産科の術を学ぶ機会を、天が与えてくれたに違いない。自分は天下に名を成した産科の大家、京都の賀川子玄先生に憧れていた。鬼籍に入ってしまわれたが、一度は賀川先生の下で産科を修めたいと思っていた。そうだ、賀川産科の門を叩こう。鶴陵はその晩のうちに江戸を立って、京都に向かった。

後年、鶴陵が『産科発蒙』を著し、胎児の位置・形状について旧来の定説を正すなど、世界に先駆けた数々の業績を上げる機会がこうして作られた。

鶴陵は43歳の時にも火事で焼け出されている。この時は、四面の壁から外が見える粗末な家で執筆をしていた。見舞い客が「何か楽しみはあるのか」と聞いた。鶴陵は「不朽の仕事を楽しみとしている」と答えた。

[出典:日経ビジネス、2009/01/05号、堀田 宗路=医学ジャーナリスト]

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