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【負の感情連鎖を断て】

A子さん(38歳)の自宅で電話が鳴った。受話器を取ると「あなた方は辞 めた人間だから何をしようと勝手。でもウチのスタッフを巻き込むのはやめ てくれない?」。元いた会社の上司であり人事部長のHさんからだった。

看護学校を卒業したA子さんは、看護師として急性期型病院、療養型病院 に勤務した後、介護サービスを行う会社に転職した。「これで少しは楽にな るかも」と期待したが、逆だった。就業規則はなく、雇用契約書で結ばれて いるだけの関係。それも時給制。顧客宅までの通勤時間は就業時間に勘定さ れず、交通費だけが支払われる。実働時間は1日平均15時間にも及び、帰宅 すると何をする気も起こらない。やがて病院勤務で痛めた腰が悪化。心身と もに崩れる寸前で離職した。

電話をよこしたHさんは、管理職になる前に、顧客先で即日解雇された過 去がある。自慢話ばかりするから不愉快だというのが、先方の理由だった。 介護に向いていない人なのだろうと思っていたら人事部長に納まった。スタ ッフの間では、上の人間に媚びたのだろうといった会話が日常茶飯に交わさ れていた。そのHさんが久々に何の連絡かと思ったら、先の一言だった。

離職したA子さんを救ってくれたのは、訪問介護で訪れたことがある家の ご主人だった。ご主人から「個人として契約してもらえないか」と連絡があ り、ありがたい話だと思って引き受けた。その人からの紹介でもう1軒、さ らにもう1軒と話が舞い込んだ。

そんな時、体調不良を理由に離職していった後輩たちからメールが来た。 広いようで狭い社会だ。「独立されたと聞きました。一緒に仕事をさせても らえませんか?」「みんなどんどん辞めていっています。人間関係がめちゃ くちゃな会社です」。

独立したわけじゃないと、A子さんは言う。「個人と契約しているだけだ から保険もないし、保障もない。それでもイヤな思いをしないだけ気が楽」。

後輩たちとグループを組み、近隣の介護サービスをするようになって1 年。介護で求められるのは体力ばかりじゃない。高齢者は孤独を感じている。 相手の身に自分をどう重ねられるかといった思いやりと、自分を抑える努力 が常に求められる。

電話の向こうにいるHさんにため息をついたA子さん。「ウチのスタッ フを巻き込むとはどういう意味ですか?」と問うた。会社を辞めた人間が 自主的に集まって働いている。巻き込むな、などと言われるような筋合いは ない。しかし、「こちらへ来ないかとあなた、今でも盛んに誘っているでし ょう」とHさんは言う。

A子さんには寝耳に水だった。そう言っている人がいるなら電話を代わっ てくれません?そう答えようとして、A子さんははっとした。喧嘩をし てはいけない。自分はそんな組織の中の人間関係や上司からの一方的な決め つけがイヤで会社を辞めたのではなかったか。相手の土俵に立ってしまえば、 自分も同じ人間になってしまう。高齢者たちの深く豊かな眼差しを思い出そ う。頸末で接小な人間関係なんて、どうでもいいことだ。

「よろしければ、勧誘されたという人のリストをファクスで送ってくださ い」とだけ告げて、A子さんは電話を切った。

[出典:日経ビジネス、2008/09/15号、荒井 千暁=産業医]

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