【届かなかった部下からのSOS】

休日の土曜日。清酒瓶とガラスの小瓶を紙袋に入れたYさん(55歳)は、 単身赴任寮を出て、事務所の裏手にある小高い山へ向かった。

野桜がちらほら咲いている。100mほど奥へ入ったところに、大きな八重 桜がある。Yさんはその木の根元に持参した清酒を振りかけ、残った酒をす すりながら、ガラスの小瓶を取り出した。振ってみるとサラサラと音がする。 砂のようなマイクロチップだ。

Yさんが部下のAさんから相談を受けたのは、3年前の今日。夜遅い時刻 だった。

Aさんは技術者として、また事実上の統括をする課長として、新プロジェ クトに加わっていた。その一方で、元いた職場からの連絡が頻繁に入ってい た。納入した機器の調整を顧客から依頼されたり、新機種の相談が舞い込ん でくるのだが、対応できない。引き継ぎ業務は既に終わっていた。しかし、 「あなたでないと細かい話が通じないんだ」と顧客から頼まれる。機種に搭 載するためのマイクロチップを開発していたAさんは、応援を快諾した。

営業に出たYさんはその日、商談を終えた。身をすり減らす作業だったが、 手応えはあった。初めての大口受注がYさんの目前にあった。事務所に戻っ て書類を整理し、寮に引き揚げて缶ビールを飲んだ。緊張状態から一気に解 放された実感があった。布団に入ると、電話が鳴った。Aさんからだった。

「もう一度考え直してみないか、と言われました」。「考え直す」という意味は Yさんにも分かっていた。元の職場の引き継ぎ作業にあと3カ月欲し いと望み、新プロジェクトへの参加はそれからにしてもらえないかと、Aさ んはプロジェクト長に直訴していた。

いったんは受理されたが、事業化が見えてきたところで、上司であるYさ んがプロジェクト長に呼ばれた。「A君の件だが、3カ月なら兼任でできる だろう。考え直すよう、君からもよく言ってくれ」。残業を毎日している部 下に、Yさんはその話をなかなか切り出せないでいた。

Aさんは事務所から電話をかけているという。時計の針は午前1時を回っ ていた。今日でなければダメだろうか。Yさんは疲れていた。それに、深い眠 りに落ちようとしていた時だった。

「夜遅くにすみませんでした」。Aさんが放った言葉に、何かが引っかかっ た。「いや、今から行こう」とYさんが言うと、Aさんはさえぎった。「明日 で構いません」。Yさんは了解して受話器を置いた。

翌日、昼になってもAさんは出勤してこなかった。事務所の職員たちが敷 地の内外を手分けして探した。裏山にある八重桜にぶら下がっていたAさん が発見されたのは、午後のことだ。

 滲みてゆけ 朽ちた魂 八重桜
Aさんのポケットにあった紙片に走り書きされていた句──。

プロジェクト長への直訴が受理され、Aさんは引き継ぎ業務に没頭していた。 深夜の電話は、新旧の職場の狭間で追い込まれた、AさんからのSOSではな かったか。

  [出典:日経ビジネス、2008/04/14号、荒井千暁=産業医]

参考;
荒井千暁(あらい・ちあき)氏
1955年生まれ。新潟大学医学部卒業。東京大 学大学院医学系研究科修了。医学博士。
現在、大手製造企業にて統括産業医の立場から、働〈人 の心のケアを行っている。
近刊に『その転職 ちょつと待った!』(アスキー新書)など。

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