【空虚な“自己実現”をさまよう部下】

Aさん(33歳)は、上司や部下に恵まれていないから昇進できず、仕事を やってもやっても報われないと感じていた。自分に非はなく、非は自分を取 り巻く環境にある−そう考える“自分最優先”の人だった。
いつも独断で仕切ろうとする上司。事あるごとに「やっぱり女性だ」との たまう、別の上司。それって、良い意味? それとも反対? 問うまでもな く、顔にノーと書いてある。あるいは、教えたことをメモするでもなく、幾度 も平気で尋ねてくる部下たち。
「私は昇進なんてしなくていい。こんな会社で昇進しても意味がない」  これがAさんの常套句になった。
上司の無理解や、部下たちの無能さを、Aさんは歓送迎会の席でも口にす るようになる。自分の不幸を知ってほしいと願い、やがてそれ自体が目的に なっていった。
そんなAさんが昇進した。別部門の長から、オフアーが来たのだ。昇進な り報われるという現象は、社員たちの思惑とは別の事情で発生する。組織社 会とは本来、そういうものだ。
それが悲劇の始まりだった。昇進したり、報われたりすることが現実にな ったことで、Aさんの「目的」が、消えてしまったためである。上司に理解が ないことが、報われないことの決定的な理由なら、昇進はできなかったはず だ。部下に能力がないことが、決定的な理由であるなら、終生報われること はなかったはずだ。
なかったはずのことを、覆すだけの理由が見つからない…そんな日々が 続いたある日の午後のこと。
「ホントは昇進なんてしたくなかった。私は自己実現ができれば、それで よかったのに…」
Aさんがふと、こぼした。聞いていた同僚たちは助言したいと思ったらし いが、あきらめた。Aさんがよく口にしていた報われることの意味や、自己 実現の意味が、分からなかったからである。抜擢してくれた上司も、やがて ため息をつくようになった。「もっと肩の力を抜けばいいのに。あれでは独 り相撲だ」「周りは敵ばかりだと、思い込んでしまっている」。 失敗すれば「〜さんのせいだ」と責任を他人に転嫁する人ならほかにもい る。Aさんの場合は、昇進してさらに「周りにいるのは自分の前途に邪魔な 人たち」との思いが加わった。自分最優先だから「一体、どうしてくれるの よ」という、自分を顧みない思いも加わる。
「この職場にいては、いつまで経っても自己実現できない」と、嘆く若い 人たちは少なくない。しかし、その原因が周囲にあるのではなく、ほかでも ない自分自身が招いているものだとしたら−−。それに気づかないうちは、 いつまで経っても“自己実現”などおぼつかないのではないだろうか。
Aさんはその後、転職した。そこで自己実現がかない、報われた生活をし ているのだろうか。Aさんが新しい職場で生き生きと働く姿が、私にはどう もうまくイメージできないでいる。

[出典:日経ビジネス、2008/02/08号、荒井千暁=産業医]

参考;
荒井千暁(あらい・ちあき)氏
1955年生まれ。
新潟大学医学部卒業。東京大学大学院医学系研究科修了。医学博士。
現在、大手製造企業にて統括産業医の立場から、働く人の心のケアを行っている。
近刊に『人を育てる時代は終わったか』(PHP研究所)。

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