【自分最優先時代の人間関係】

私は40歳の手前で“燃え尽き”を経験した。医療現場ならよくある詰だ。 苦しむ人がいるのだから日々全力投球しなければ、と医師や看護師たちは思 う。孤軍奮闘というより、不治の病に負けるな!といった思い上がりがあ った。自滅して産業医に転向。しばし骨休めという目的だったから、転向し たというより逃げ込んだ。1992年の夏だった。
職場のメンタルヘルス(心の健康)などという用語はまだなく、温和な時 代だった。上司に対する不平や不満を口にする人もいたが、部下に対する不 平や不満はあまり聞かなかった。こうした傾向は医療現場でも同じだったか ら、どの職場にも身勝手で前近代的な年配者がいるのだろうとの印象しか抱 かずにいた。
95年あたりから状況は変わる。リストラや非正社員化という用語が飛び 交い、成果主義や目標管理主義といったシステムが現れた。そこはかとない 不安が生まれ、安心して働けるという職場意識が薄れていった。多くの労働 者たちが守勢に回るようになり、新卒者は就職できず、入社しても「向かな い仕事」を理由に離職し、働かない若者や働けない若者たちの詰まで開かれ るようになった。
それから13年。景気は回復したという見方がある一方で、サブプライム ローン(信用力の低い個人向け住宅融資)問題や円高から、先行きを懸念す る声もある。不安感は、景気が底冷えだった時代より薄らいでいるのだろう が、不透明感は変わらない。
私に関して言えば、機会あるごとに成果主義に異を唱えるようになった。 成果主義によって業績向上がもたらされたり、有能な人材が発掘されたとい う客観的なデータがないからだ。しかも、成果を賃金に直結させている組織 体からは、人間関係が悪くなっているとの声がよく届く。各人が成果を出せ ばよいというスタンスから、部下の面倒は見なくてもよいと公言する上司が 生まれ、成果は自力で上げるので上司の助言は不要という部下が生まれる。 世は、自分最優先の時代らしい。
推進力を回復させようと、少なからぬ組織体が今、職場教育の重要性を再 認識しつつある。
今回、課題を頂いた。「上司と部下の周辺に漂う人間関係について考えて いただけませんか?」。古くて新しいテーマだ。人間関係の骨格は変わって いないのか、それとも骨格自体が変わりつつあるのか。氾濫する情報や核家 族化、少子高齢化といった外部環境の変化は、精神衛生という“内なる世界” にまで変化をもたらそうとしているのだろうか。
産業医に転向して16年目。もはや逃げ隠れる場はないし、逃げられる年 齢でもない。難問が山積するビジネス社会で働く人は、うつむく患者に似て いる。
このコラムを通じて、絡まった糸を見つめてみよう。とはいえ、私は医療 人。ビジネスマンの世界には疎いから、ほぐせるかどうか。忌悸なきご意見と ご批判を願う。

[出典:日経ビジネス、2008/01/21号、荒井千暁=産業医]

参考:
荒井千暁(あらい・ちあき)氏
1955年生まれ。新潟大学医学部卒業。東京大学大学院医学系研究科修了。医学博士。
現在、大手製造企業にて統括産業医の立場から、働く人の心のケアを行っている。2月に『人を育てる時代 は終わったか』(PHP研究所)発刊予定。

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