【メタポリックシンドロームの解消】

多摩川上流のサイクリングロードで、自転車に乗ったK氏(54歳)とす れ違う。「Kさ〜ん!」と呼びかけると、K氏は手を振り、笑顔で応えてくれた。 3年前と違って、日焼けして引き締まった体になっていた。

初めて当院を訪れた時、K氏は自分のことを他人事のように話す不思議な 人だった。奥さんの勧めで受けた人間ドックでは、身長168cmなのに体重 は80kg。腹囲も95cmを超え、明らかに肥満と言えた。そのうえ、中性脂 肪とコレステロール値が高く、高血圧で脂肪肝。今話題のメタポリックシン ドローム(代謝症候群)だった。
世間では“メタボ”などと呼び、肥満の代名詞として面白おかしくはやし立 てることもあるが、突然死が起こりやすい危険な状態だ。だが、結果を聞い たK氏は「すぐに死にますね」と、平気な顔で結論づける。K氏のそんな態度 には、理由があった。
K氏は35歳の時に記憶喪失になっていた。階段を踏み外し、後頭部を強 打したのだ。記憶をなくしたことは、大変なショックだった。当時4歳だっ た娘さんの成長過程も思い出せず、奥さんが急に老けたように感じた。精神 科や神経内科を訪れたが、K氏の症例は興味や研究の対象になるだけで、本 気で治そうとする医者は皆無だった。
なくした記憶を取り戻すため、奥さんが懸命になって、旅行時の写真や日 記など過去の記録を、1年ごとに整理してたどってくれた。その結果、10年 分の記憶が失われたことが分かった。
K氏は当時、コンピューターソフトの会社を経営していた。だが、10年も の記憶が抜け落ちれば、当然経営は立ち行かなくなり倒産した。しばらく療 養することになったものの、コンピューターが好きな点やソフトに関する卓 越した知識に変わりはなく、ほどなくしてソフト会社への就職に成功し、重 責を担うまでになった。
15年以上経っても、当時のことを思うと違和感があるとK氏は言う。後 から資料を見て覚えた記憶は、学生時代に歴史を暗記したようなもので、自 分が体験した実感がなかったのだ。
メタポリックシンドロームを解消するために、日課の晩酌を控え、休日に は運動をするよう提案した。いつも自分を客観視していたK氏だったが、晩 酌はストレス解消になり、それがないと暴食してしまうので、やめたくない と主張した。
そこで、私は毎日自転車通勤をすることでストレスを解消していることを 話すと、K氏はとても興味を示した。サイクリングを始めたK氏は、初診か ら1年日で体重が74kgまで落ち、2年目で72kgを切った。25%強あった体 脂肪率も、18%を下回った。
多摩川での偶然の出会いは、神様がK氏の努力を見せてくれたように思え た。聞けば3年経った今でも、毎週末には、100km以上を自転車で走ってい るという。少年時代に味わった自転車で風を切る爽快感を、K氏は忘れてい なかった。すべてのものから自由になる解放感も覚えていた。
新たな記憶を自分の体や脳に刻み込むかのように、青空の下、夢中になっ てペダルを漕ぎ、走り去るK氏の後ろ姿を見て、私は何だかうれしかった。

[出典:日経ビジネス、2007/08/27号、安岡博之=南赤坂クリニック院長]

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