【ヒポクラテスの誓い】

私立探偵、フィリップ・マー口ウが登場するレイモンド・チャンドラー氏 の『長いお別れ』(清水俊二氏訳)が、村上春樹氏の再訳で『ロング・グッド バイ』として刊行された。今回もマー口ウのシニカルな会話を堪能できる が、その1つが、意識を失った男を前にして、手当てをしようともしないド クターに、マー口ウが「あなたが『ヒポクラテスの誓い』という短い一文を 最後に目にしてから、どうやら長い歳月が経ったようだ」というくだり。
「ヒポクラテスの誓い」は、古代ギリシャの医師、ヒポクラテスが医の倫 理をまとめたもので、現在でも医療のあるべき姿を示すものとして継承され ている。そこには「私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をと り、悪くて有害と知る方法を決してとらない」(小川鼎三氏訳)という一文が あるが、これを実行するのは難しい。
例えば、ガン治療における化学療法では、大抵、辛い副作用が出現する。 それでも医師は患者が拒否しない限り、治療しなければならない。日本臨 床腫瘍学会は126人のガン薬物療法専門医を認定しているが、彼らの役割の 1つは、より効果的で、副作用を最小限に抑える薬物療法を行うこと。米国 にはこうした専門家が約1万人いる。
ガン治療に薬物療法は欠かせない。しかし、患者の利益と害を秤にかけた 時、害の方が大きいという場合も皆無ではない。紀元前に書かれた医療のあ るべき姿を示した短い文章を実行するために、日本の医療界は、これからガ ン薬物療法専門医を4000人も育てなければならない、と言われている。

[出典:日経ビジネス、2007/05/07号、田野井正雄=医学ジャーナリスト]

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