【一日を十日として生きる】

1787(天明7)年の元旦、朝の六つ時(午前6時)に江戸牛込矢来にある若狭小浜藩邸に出仕した蘭方医杉田玄白は、藩主酒井忠貫に慶賀の挨拶をし、御用済みの後は吉原新町の尾張屋床二郎の依頼で往診をした。
玄白は既に50代半ばに達していたが、正月三が日でも休診することはなかった。年中無休で、患者の要請があればいつでも、日本橋浜町の自宅から下谷・蔵前・吉原・浅草・万世橋・小川町・青山・品川など、かなりの広範囲までも往診した。それも、何ヵ所も掛け持ちする超多忙な毎日であった。
カネのためではない。小浜藩の藩医として経済的に恵まれていたので、そんなに働く必要はなかった。医師の良心に基づいてそうしていたのだ。だからといって、仕事ばかりしていたのではない。画筆を執っては素人とは思えない「百鶴図」のような作品を描き、さらに連歌を学び、俳諧を楽しみ、書の研鑚を積んだ。宴会や芝居見物にも足を運んでいた。
63歳の時には、4人目の子供までもうけている。玄白がやっと引退したのは75歳の時だが、80代になっても現役の医師として往診を続けた。有名な『蘭学事始』を著したのも、83歳の時である。
なぜこれほどたくさんのことができたのか。それは、一日一日を大切にしていたからだ。84歳で『養生訓』をまとめた貝原益軒も次のように記している。
「老後は若き時より月日の早きこと十倍なれば、一日を十日とし、十日を百日とし、一月を一年として楽しみ、あだに日を暮らすべからず」。

(出典:日経ビジネス、2004/02/09号、堀田宗路=医学ジャーナリスト)

戻る