【和同開珎(わどうかいちん)】

「和同開珎」というのは「富本銭(ふほんせん)」が見つかるまでは、日本最古の銅銭といわれていました。皆さんも中学生時代?に習った記憶があるはずです。この「和同開珎」の大量生産の工程が、解明されたという記事が新聞に出ました。
ところで、この「珎」という漢字には二つの読み方があります。もう一つの読み方は「ほう」といいます。そのため、一般には「わどうかいちん」で呼ばれていますが、「わどうかいほう」という説もあります。
それは「珎」という漢字が略字だということに端を発しています。
ひとつは「珍」の略字とする説と、「寶(たから)」の略字「寳」であり、「珎」と略したというものです。 なお、「寶」の常用漢字は「宝」です。
まず偏の話ですが、「珍」「珎」「寶」「寳」「宝」すべて「玉(たまへん/おうへん)」に属します。「玉」が偏になったとき、珍・現・理のように偏が王の形になります。
旧字「寶」は、宀+玉+貝+缶から成り立っています。缶は陶製の祭器。宀は廟所。廟所に供える玉や貝や缶をいいます。宝、宝物の意を表します。宀は一説には家の意。缶は土器。家の中に玉や貨幣を大切にしまっておく意を表わします。(寶の字解=新潮日本語漢字辞典による)
以下は新聞記事全文です。

【和同開珎に量産工程】(平城京で原型→地方に配り鋳造)

奈良時代に流通した国内最古級の貨幣「和同開弥(わどうかいちん)」(鋼銭)は、平城京(奈良市)鋳造の元となる「種銭(たねせん)」を造った後、この「種銭」が地方の鋼生産地に配給され、大量生産された可能性があることが国立文化財機構奈良文化財研究所の調査でわかった。平城京で過去に出土した鋳型が「種銭」用だったことが最近の分析で明らかになった。規格を統一するため、中央に「種銭」の官営工房を置いていたとみられる。 (渡義人)
奈文研によると、和同閲弥の鋳型の破片が79年に平城京の中心部から見つかった。730年代に造られたもので、場所は平城宮から約1`しか離れていなかった。平城京内の「造幣局」について記述した文献がなかったため、ニセ銭造りの跡とみられてきた。
しかし、奈文研の松村恵司・都城発掘調査部長が07年度に実施した実験で、銭を鋳造した場合、完成品の大きさが原型より1・78%収縮することが解明された。この数値を元に松村部長が79年出土の鋳型について再計算したところ、本物の和同閲弥(平均直径 2・45センチ)より一回り大きい銭(同2・53センチ)ができることがわかった。この銭から再び型を取って銭を造り、側面を磨くなどして仕上げると、本物とほば同じ大きさになった。
ニセ銭の場合は、本物から型を取るため本物より一回り小さくなるという。この結果から、出土した鋳型は「種銭」用だったと判断した。平城京からは以前、母銭とみられる和同開弥1枚も見つかっている。「種銭」よりさらに一回り大きい。
730年代には鋼の生産地がそばにある山口県下関市や、都に近い京都府木津川市の2カ所に「鋳銭司(ちゅうせんし)」と呼ばれる造幣局があった。原料の鋼を都まで運ぶにはかなりの労力がいるため、中央で「種銭」を製造した後、生産地に送り、現地で大量生産したらしい。「種銭」用の鋳型自体は地方に送らず、中央で厳重に管理していたとみられる。
松村部長は「大量発行した和同開弥の規格を全国一律で維持するためにはなくてはならない措置だった」と推察している。

[和同開称]和網元(708)年に武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)で見つかった自然銅が朝廷へ献上されたのを機に造られた貨幣。平城京造営の資金をひねり出すのが発行の目的とみられ、造られた量は不明。ニセ銭造りも横行し、畿内やその周辺以外ではあまり流通しなかったとされる。これまで全国から約5千枚が出土しているが、うち約3千枚は平城京内。かつては「日本最古の貨幣」とされてきたが、現在では飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)などで出土した7世紀の富本銭(ふほんせん)が最古と考えられている。

(出典:朝日新聞、2008/12/24)

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